2001年宇宙の旅
▼2002年 8月31日 (Sat) -- No.[428]
夜に映画"2001:A Space Odyssey(邦題:2001年宇宙の旅)"をダウンダウンの映画館で観る。言わずと知れた1968年公開の映画史に残る名作。小学生高学年か、中学に入った頃テレビで観た記憶があるが、あまりの難解さに「意味がわからない」との記憶だけで、肝心の内容をさっぱり覚えていなかった。そのためにずっと口の中で小石を噛み当てたような苦い思い出として、僕の心の片隅に残っていたのだ。そして今回僕の借りを返す時がやってきた。
僕の記憶通り難解な映画であった。しかしそれと同時におよそ2時間半の上映後、まるで鳥肌が立つかのような感覚も覚えた。映画のありとあらゆる場面に散りばめられた哲学的思考。初公開されてから35年ほど経過した今でさえも論議が絶えない結末、色あせない映像と音像。この映画を経験した人によって捕らえ方は全く異なるかもしれないが、ここから先は僕が感じた個人的な感想である。
この映画では象徴化された2つの知的建造物が登場する。1992年に完成し自我を発達させたコンピューターHAL。人類の創成期、突如類人猿の前に現れ、その後月の裏側で再び人類に姿を表す石版モノリス。両者ともに一個人の生命でなく、人類全体が50億年を費やして発展させてきた文明、あるいは繰り返される生と死の象徴として僕の目には映った。
宇宙船ディスカバリー号に搭載され、人類が辿り着いた超知的構造物のHAL。無機物質の集まりにも関わらず、自我を持つに至った「彼」は宇宙飛行士に嘘をつき、自我の赴くままに任務を遂行しようとする。歴史上常に人類に従順であった彼は、ついに殺人行為さえ犯す。自ら与えた擬似的生命に命を絶たれる人類。
ストーリーが進むにつれ、人類を新たな段階へと導いていくモノリス。その石版は人によって「神」と理解する事もできたであろう。そのために極めて宗教的な意味合いを含蓄した映画とも言えなくはない。「彼」は猿に武器の概念を与えたり、木星へ旅立つ理由付を与えたり、人類が作り出す文明の発展を常に見守っていた。そしてモノリスが最後に人類を導いた場所は、母体から生まれ落ちる前の胎児としての生命体。
自ら「生」を与えた人工物に、逆に「死」を与えられる人類の皮肉。モノリスが人類全体に与えた「生きる理由」としての生と死。そして最後に人類を導いた生の前の生。僕が映画を通じて感じたのは表裏一体である命の概念だった。
恐らく将来この映画を見る度に、僕が抱く感想は変っていくと思う。ここに書かれた感想はあくまで一時的な気がするのだ。芸術とは本来それを経験した人に印象を委ねる物だと僕は信じる。2001年宇宙の旅は立派な芸術作品だと思う。観た人によって感じ方が千差万別であってしかるべきだ。それでも原作のアーサー・C・クラークと、メガホンを取ったスタンリー・キューブリックは僕に何を伝えたかったのか。しかしそれはやはり、自身の知的発想に頼るしかなさそうだ。