人身事故と遅刻
久しぶりに普通に会社に来る。これまで早番だったり遅番だったり、人とはずれてお休みを取ってたりしたので、9時に会社に来て自席に座る感覚が本当に久しぶりだ。あまりに久しぶり過ぎて、これまで家を何時に出ていたかさえ忘れてしまった。結果的に遅刻気味である。しかしこの日はたまたま山手線が人身事故で遅れていた。それにかこつけてゆっくり出社。
人身事故にかこつけてゆっくり出社。
「人身事故」という言葉に慣れきってしまった自分があまりに寂しい。蒸れるような新緑が目に眩しい、快晴とは言えないも、五月晴れの清清しい朝である。一年で一番外を歩くのが気持ち良いこの季節。でも僕の知らない誰かが、電車に飛び込んで自殺を図っているという現実(本当に事故かもしれないけど)。
一体彼/彼女は、どんな気持ちでラッシュ時のプラットホームから身を投げるんだろうか。駅舎内を颯爽と闊歩する誰かと、自身の境遇を対比させ、自分の価値に居たたまれなくなり、ふらりと転げ落ちるように死んでいくのか。それとも死ぬ時くらい自分の存在を示そう、人に迷惑をかけよう、と計画的に死んでいくのであろうか。そんな自殺者の意図とは全く別のところに生きる僕は、その「おかげでゆっくり出社できた」とした思っていない。そこで生じている乖離は一体なんだんだろう。
人に迷惑をかけるってどういうことなんだろう。僕が生きていること。それは他人の迷惑に他ならないんじゃないか。もし僕がこの世の中でたった一人との接触を持たずに生きているとすれば、僕なんて死んだ方が世界のためなんじゃないか。それが絶対的に他者の幸せに繋がるんじゃないか。
一般的な社会生活を営む僕らが死んだら、誰かが嘆き、悲しみ、利益を損なう。つまり人が迷惑をこうむる。これはやっちゃいけない。だから僕は自ら命を絶つことはしちゃいけないんだ。
でもこう考えられるのは、僕が今健全な精神状態を保っているからに他ならない。つまり僕がいつ死のうとするかわからないね。